- システム運用とは?
- 投資信託の運用方法で、ファンドマネジャーなどの人による判断・指示ではなく、コンピュータによる判断でファンド運用を行うこと。そのシステムは過去のデータや経験、ノウハウを基に開発される。 外為の到達以前のこの地にはチブチャ系の諸族が居住していた。現在のニカラグアは北方からトルテカ族、アステカ族がやってくる中間点で、相互の影響により豊かな文化が形成され、美しい陶器や石像を今に残している。また、それゆえにアステカ帝国最南端の交易所があり、中米地峡の北と南を繋いでいた。 フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ1492年にクリストバル・コロンがイスパニョーラ島を「発見」してから、アメリカ大陸全域がヨーロッパ人の侵略に晒されたが、ニカラグアもその例外ではなかった。1502年、コロンに発見されたニカラグアでは、インディヘナが集団改宗する事件などもあった。 日経225のニカラオカリ(現在のリバス付近)を本拠とするインディヘナのニキラノ族の首長ニカラオが侵略に立ち向かった。それゆえ、この地域一帯を総称しニカラグア(ニカラオの地)と呼ぶようになった。 しかし、このようなインディヘナたちの抵抗にもかかわらず、スペイン人征服者のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(コルドバは現行の通貨名となっている)に征服され、以後ニカラグアは、他の周辺地域と同様に、スペインによる過酷な支配下におかれることになった。 こうして植民地になったニカラグアでは、金鉱山やカカオ栽培等にインディヘナが奴隷として過酷な労役に使役され、ヨーロッパから天然痘などの疫病が伝播すると、虐殺や奴隷化の対象となったインディヘナ人口は絶滅に近いほど激減した。インディヘナがほぼ絶滅すると、代わりにアフリカ大陸から黒人奴隷が投入されるのも、ラテン・アメリカの他地域と同様であった。 その後、ヌエバ・エスパーニャ副王領の下のグアテマラ総督領の一部として管理下におかれ、農業や牧畜業が営まれたが、ニカラグアは中米ではホンジュラスやコスタリカと並んで開発が立ち遅れた地域だった。また、植民地時代を通じて次第にメスティーソが増えていった。 なお、植民地時代を通してカリブ海側はイギリス海賊の襲撃が相次ぎ、ミスキート王国はイギリス領ホンジュラス(現在のベリーズ)のようにイギリスの影響力が強まることになる。 FXに位置するコーン諸島は、元々モスキート海岸の残りと共にニカラグアに割譲されるまでイギリスの保護領だった。19世紀前半にはインディアス植民地各地のクリオージョ達の間で独立の気運が高まった。1789年のフランス革命以来のヨーロッパの政治的混乱の中、ナポレオン戦争により1808年からスペイン本国で半島戦争が勃発した。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがボルボン朝のフェルナンド7世を退位させ、兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1811年から独立闘争が本格化し、1821年9月15日にグアテマラ総督領が独立すると、ニカラグアもスペイン支配から解放された。 中米諸国は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国に併合されるが、1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴い旧グアテマラ総督領の五州は中央アメリカ連合州として独立し、1824年には中央アメリカ連邦が成立した。エル・サルバドル出身のホセ・アルセが中米連邦初代大統領となるが、独立後すぐに政治的混乱を起こした。フランシスコ・モラサンをはじめとする自由主義者のエル・サルバドル派と、 ラファエル・カレーラをはじめとする保守主義者のグアテマラ派の内戦のなかで、モラサン率いる政府軍がグアテマラの戦いで敗れると、1838年に中米連邦は崩壊した。 中米連邦が崩壊して再独立した後は、他のラテンアメリカ諸国と同じように自由党と保守党の対立が先鋭化した。連邦崩壊後は自由主義派のレオンと保守主義派のグラナダの主導権争いが続き、両者が独自に大統領を擁立する中で中央政府はしばらく存在しなかったが、1853年にグラナダ出身の保守主義者フルート・チャモロが選挙によって大統領に就任すると、混乱はようやく収束したかに見えた。 しかし混乱は続き、1854年12月にアメリカ合衆国南部人で傭兵出身の冒険家ウィリアム・ウォーカーがニカラグア自由党の傭兵として上陸し、レオンの自由党とグラナダの保守党の内紛を利用して支配権を掌握した。ウォーカーは翌1856年6月、自らニカラグア大統領に就任した。アメリカ南部のテネシー州出身で環カリブ海帝国を建設しようとしていたウォーカーは、英語を公用語として強制し、既にニカラグアでは廃止されていた黒人奴隷制の復活を布告し、さらにはアメリカ合衆国人の土地取得を有利にする法律を制定した。 中米諸国はこの挙に対し一致団結して当たり、国民戦争が始まった。イギリスやバンダービルド財閥の支援を受けたコスタリカを主体とした中央アメリカ連合軍は、リバスの戦いでウォーカー軍を破り、1857年にウォーカーは打倒された。 また、先の国民戦争でウォーカーを招き入れてしまったことが仇になり、以後の自由党は暫く勢力を失い、その後しばらく保守党政権が続いた。 1893年、自由党のホセ・サントス・セラヤが政権を握り進出を始めたアメリカ資本の援助を受けて鉄道建設などを実行した。 1894年、セラヤはイギリス領だった大西洋側のミスキート王国をアメリカの支持の下に併合し、ニカラグアは太平洋と大西洋の両方に面した国家となった。またセラヤはニカラグアをグアテマラに代わって中米の指導的な国家にするために手を尽くし、エル・サルバドル、ホンジュラスと共に1896年には大中米共和国を樹立するが、1898年にはこの国家は崩壊してしまった。 セラヤはその後独裁者として長期政権を維持するが1909年、アメリカ政府を激怒させてしまい失脚することになった。 アウグスト・セサル・サンディーノ(中央)セラヤ失脚後は様々な政権が入れ替わり立ち替わりし、ブライアン・チャモロ協定が結ばれるとようやく建国当時からパナマ案と並んでの候補だった、中米地峡運河建設のニカラグア案が正式に放棄されることになった。 1927年、自由党のモンカーダらが保守党のディアス政権に対しての戦争を始めた。この戦争はすぐに停戦してしまったが、停戦後再びアメリカ海兵隊が上陸してくると自由党軍のアウグスト・セサル・サンディーノ将軍だけは停戦に応じず、ニカラグア民族主権防衛軍を率いて選挙監視を行うために駐留していたアメリカ海兵隊(占領軍)を攻撃した(サンディーノ戦争)。サンディーノ戦争はラテン・アメリカ諸国の支援を受けての、世界初の近代的なゲリラ戦争となった。アメリカ海兵隊は被害を恐れ、ニカラグア国家警備隊を養成し、海兵隊と共に国家警備隊がサンディーノ軍とジャングルの中でゲリラ戦を行うことになった。 しかし、お互い決め手にかけたまま時間だけが経ち、遂に選挙監視の任務が終わったこと、世界恐慌の影響でニカラグアに駐留する費用も惜しくなったことなどを原因に1933年、アメリカ海兵隊が撤退してサンディーノ戦争は終結した。しかし翌1934年、サンディーノはアメリカ合衆国子飼いの国家警備隊長アナスタシオ・ソモサ・ガルシアに暗殺され、1936年にソモサはクーデターを起こして自ら政権についた。こうして以降のニカラグアは1936年から1979年まで43年に及ぶソモサ王朝の支配が続くことになった。 1937年に大統領に就任したアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(タチョ)は、傀儡大統領を据えて政治と国家を私物化し、国会警備隊を利用した純然たる力の政治が行われた。