- 受益権とは?
- 受益権とは、投資信託の運用益を、投資家が享受する権利のこと。 投資家が託した財産(信託財産)を運用する権利・義務は委託者にあるが、そこから上がる収益を享受する権利は、当然信託した側の投資家にある。その権利である受益権は、受益証券に明記され証明されている。投資信託への投資家を受益者とも言う。 外国為替証拠金取引ではアメリカ合衆国に追従する一方で、隣国のコスタリカと二度、ホンジュラスと一度戦争を起こすなど、中米におけるニカラグアの影響力を拡大することに余念がなかった。 タチョが詩人に暗殺されると、長男のルイス・ソモサ・デバイレが後継者として実権を掌握した。ルイスは自由党(PLN)をコントロールし、形だけでもメキシコの制度的革命党(PRI)のような、PLNによる一党独裁体制の体裁をとっていたが、1963年に病死した。 後を継いだタチョの次男のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(タチート)は純然たる力の政治を目指し、国家警備隊による暴力を政権基盤として独裁を行った。 1972年にマナグア大地震により、首都マナグアが壊滅すると世界中からニカラグアへの義捐物資が送られたが、タチートはこれを全てソモサ一家とその関連企業の間で着服し、国民の不満は一層高まることになった。 外国為替から続いていたソモサ家独裁に反対する中道・左派の幅広い結集を受けて1979年武装蜂起したサンディニスタ民族解放戦線 (FSLN) に対し、7月19日アナスタシオ・ソモサ・デバイレ大統領はアメリカに亡命した(第一次ニカラグア内戦)。こうして43年間におよぶソモサ王朝は終焉し、サンディニスタ革命=「歌う革命」が実現した。 サンディニスタ革命はニカラグア固有の条件を考慮した独自の革命であり、社会正義を実現するために遅れた部分を改革するというところから始まったものであった。このため、当初は非同盟政策、混合経済、複数政党制などの国造りを目標にして、キューバやソ連などの東側諸国から一線を画するつもりでいたが、次第にアメリカ合衆国やソ連やサンディニスタや国内保守派の思惑が入り乱れ、これが第二次ニカラグア内戦へと繋がるのである。 「人権外交」を掲げたジミー・カーター合衆国大統領とは違って革命を敵視したロナルド・レーガン合衆国大統領は“自由で民主的な政権を作る”という名目の下、「エル・サルバドル死守」を掲げて中米に介入を始めた。また、 オリバー・ノースがアメリカ政府とは独立した支援活動を繰り広げるなど、水面下でのさまざまな暗躍が噂された。 アメリカ合衆国は経済援助を停止し、CIAなどさまざまな組織を通じて、旧ソモサ軍の兵士や、エデン・パストラをはじめとするサンディニスタの反主流派、カリブ海のモスキート海岸の先住民、ミスキート族などを反政府勢力コントラに組織し、ニカラグアに第二次ニカラグア内戦を強いた。 1984年から1985年にかけて、革命政権「国家再建会議」から民政移管する形式がとられ、選挙によってサンディニスタ党首で再建会議議長のダニエル・オルテガが大統領となった。このオルテガ第一次政権は、ニカラグア国内の鉄道を撤収し、大規模な私有財産の接収を行った。また、反対者を秘密警察を通じて誘拐・拷問・幽閉などの徹底的な弾圧を行ったので、多くの知識人・富裕層がアメリカのマイアミやロサンゼルスに亡命した。この結果、ソモサ以前は中米一の繁栄を誇っていたニカラグア経済は完全に破壊されてしまう(第一次オルテガ政権が幕を閉じた時には、GDPはソモサ末期の1979年の30%以下にまで低下していた)。 1986年6月、国際司法裁判所は、アメリカ合衆国の主張を全面的に[要出典]退け「機雷封鎖、コントラ支援を含むニカラグアへの攻撃は、国連憲章をふくむ国際法に違反」とする判決を下すが、アメリカはコントラ支援をますますエスカレートさせる。11月、アメリカ合衆国のイランへの武器売却代金がニカラグアのコントラ・グループに流れていた事が発覚(イラン・コントラ事件)。この際にアメリカ合衆国の手先となって支援資金の洗浄をしていたのはサレム・ビンラディン(オサマ・ビンラディンの兄)であった。 1987年の中米和平合意に沿って、1988年3月、政府と反政府勢力問の暫定停戦合意が成立した。1990年2月、国連による国際監視のもとで大統領選挙を実施した。オルテガをはじめとするサンディニスタ幹部はこの選挙での勝利を予想していたが、サンディニスタは僅差で敗れ、国民野党連合 (UNO) のビオレータ・チャモロ候補が初の女性大統領に選出された。4月にチャモロ政権が発足。6月にはコントラが武装解除・解体完了を宣言する一方、国軍(それまで革命前の反政府武装勢力時代からの名称「サンディニスタ人民軍」を用いていたが、改称した)が8万人から1万5千人に削減され、内戦は実質的に終結した。サンディニスタ内ではクーデターを起こして政権を確保しようとする動きもあったが、オルテガ大統領はこれを制し、無事民主的な政権交代が実施された。その一方でダニエル・オルテガの弟が国軍の最高司令官に就任するなど、サンディニスタと野党のお互いの妥協が認められた形となった。 1996年10月20日に、大統領等選挙が行われ、自由同盟(AL、中道右派連合)から元ソモサの部下だったアルノルド・アレマン候補が当選した。1997年1月10日、アレマン新政権発足する。同時にダニエル・オルテガの養女へのセクハラなど、FSLN幹部の汚職がスキャンダル化し、サンディニスタ革新運動が分裂した。 2001年11月4日に行われた総選挙で、エンリケ・ボラーニョス前副大統領が選出、2002年1月10日にボラーニョス政権発足。前アレマン大統領の在任時の汚職疑惑が社会問題化する。2006年11月5日に行われた大統領選挙で、カトリック教会を味方につけ貧困撲滅を訴えた、FSLNのダニエル・オルテガ元大統領が16年ぶりに当選した[1]。2007年1月10日にオルテガは大統領に就任した。 地勢面ではモモトンボ火山が属する山岳地帯でも標高は3,000m台に留まり、東西の海岸地帯は熱帯平野となっている。東海岸の中央部に湿地帯が広がり、一方、西海岸の中部はニカラグア湖が近い。カリブ海にはコーン諸島とミスキート諸島がある。 ニカラグア湖は中米最大の湖であり、独立当初からニカラグア湖と東西海岸部を結んで パナマ運河のようなニカラグア運河を建設する構想があったが、実現する見込みは薄い。面積は8029km2、最大深度70m(湖面標高32m)である。 首都マナグアの北西にはマナグア湖が位置する。マナグア湖は工業化による環境汚染が酷くなっているが、マナグア湖から流れ出すティピタパ川がニカラグア湖に流れ込む。 ニカラグア湖南東部からサン・フアン川がはじまり、カリブ海に河口が開く。ニカラグア湖には多数の火山性の島がおり、湖内最大の島はオメテペ島である。 ニカラグアは全土が熱帯性の気候に属するが、標高や地域によって差がある。ケッペンの気候区分によれば、西海岸はサバナ気候、東海岸は乾季の無い熱帯雨林気候に属する。また、国土中央の山岳部は温暖湿潤気候に属する。 西海岸では、雨季は5月から10月、乾季は11月から4月であり、高温多湿な気候である。一方で、北部山岳地帯では年間を通して過ごしやすい気候が続く。 首都マナグアの年間平均降水量は1,358mmであり、特に雨季は高温多湿となっている。 首都マナグアを見守るアウグスト・セサル・サンディーノ将軍のトタンで出来た像。足元には、チェ・ゲバラが描かれた旗が舞っている。労働人口の40%以上が第一次産業に従事しており、主要産業はコーヒー、バナナ、サトウキビ、牛肉、葉巻など。北部山岳地帯のマタガルパ県、ヒノテガ県でコーヒー栽培が盛んである。近年は日本にも豆の輸出があるものの、コスタリカ産、グアテマラ産のそれには及ばない。北西部ではサトウキビの栽培やエビの養殖が行われている。嗜好品であるが、ニカラグア産の葉巻とラム酒"Flor de Can-a"はキューバ産の物に劣らない程の高級品である。 南西部の太平洋岸では観光業やリゾート不動産業の進展が著しい。 ニカラグアの観光産業は近年急速に発展している。ニカラグアにはメキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ベリーズのようなマヤ文明の遺跡は存在しないが、代表的な観光地としてはマナグア、レオン、グラナダ、オメテペ島、サン・フアン・デル・スール、コーン諸島などが挙げられ、近年はエコツアーも発展している。首都マナグアのルベン・ダリオ劇場、文化宮殿、サンディーノのトタンで出来た黒い像などが観光名所として有名であり、毎年4月にカルナバルが行われる。 1927年にアメリカ合衆国によってそれまであった国軍は解体され、新たにアメリカ海兵隊の指導を受けた国家警備隊が設立されたが、国家警備隊は1979年のニカラグア革命によって解体された。その後サンディニスタ人民軍と反革命傭兵軍コントラとの内戦が1980年代を通じて続けられ、内戦による兵力不足を補うために徴兵制も施行されたが、1988年の停戦合意後にサンディニスタ人民軍は大幅に削減され、1990年に名称もニカラグア軍に改名された。 現在徴兵制は廃止され、志願兵制となっている。